菊地臣一 コラム「学長からの手紙 〜医師としてのマナー〜

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223. 人間(ヒト) を地位や肩書きで判断するな

毎朝、大きなテーブルに書類、連絡メモ、手紙、メール、書籍、執筆中の原稿などが整然と並べられています。
朝はこれらを処理する仕事に追われているなかで、気付いたことがあります。
それは、個人と組織、組織と組織との関係です。

思い立った切っ掛けはこうです。

私が教授に在職していた当時、製薬メーカー、医療機器メーカー、あるいは医療関連企業から、定期的に広報誌が多数送られてきていました。
私は、医療関係はもちろん、その他の情報誌を含むこれらの書籍を必ず手に取り、読みます。何故なら、そこには仕事の、あるいは人生を考えるうえでのヒントを与えてくれる文章や記事があるからです。

教授を辞した今、私は一講座のトップではありません。途端に、殆どの広報誌が届かなくなりました。
なかには、今でも整形外科教授、あるいは昔就任していた病院長宛でダイレクトメールが送られてきます。
因み(ちなみ)に、私の地位の変更に応じて変わらずに送って下さったのは数社でした。

私が、若い自分、教室の自治会なる組織を除名され、大学を追い出されて(当時の言い方で言えば反動右翼でしょうか)以来、自らの意志で様々な職場を経験しました。
今の視点でみても医師としては非典型的な経歴です。そんななかで、人生の知恵を学びました。

今回、考えたのは、会社という組織は、対象者(顧客)を肩書きや地位で判断しているのではないかという危惧です。
私が危惧と考えているだけで、会社からみればそれは当然と言われてしまうかもしれません。それはそれで良いのです。只、私には、組織を通じての接触や交流であっても、先(ま)ず、個人という人格があるので、個を尊重する必要があるのではないかという思いがあります。

以前にも書きましたが、地位や肩書きで評価されてしまう人間の哀しみに思い至って欲しいのです(3860平成24年度学位記授与式式辞 )。
私が、東京の大きな病院から僻地(へきち)の小さな病院に院長として赴任した時の事です。
ある製薬メーカーの方から電話で、「先生の病院は遠いので、北海道での講演の切符を郵送で送っていいですか」と言われたことがあります。勿論、何の問題もないと答えました。しかし、「私とは面識がない、遠いから、行くのは面倒」という口調には、少し傷つきました。

別な会社の方は、「本社から言われたので訪問しました」と、文字通り、脹れっ面で訪ねて来ました。私が、東京の大きな病院で働いていた時には経験しなかったことです。
東京の病院を辞めると分かった途端に、私が何か不始末を為出(しで)かして左遷されたと思ったのかも知れません。会社の人間としての感覚では尤(もっと)もな発想です。また、手の平を返したような不遜な態度を取る方もいました。

当時、私の普段の対人態度に社会人として問題があったことは重々承知して書いています(今でも同じかも知れません)。「寸鉄人を刺す」言葉、Yes・Noのはっきりした物言い、せっかち、我儘(わがまま)、それらを差し引いても、勤務地が変わった後の会社を含めた関係者、一変した私への態度は、私に人生での教訓を授けてくれました。
“人間(ヒト)は他人を地位や肩書きで判断する”と。

広報誌の件も、恐らくこの考え方の延長線上にあるのではないかと考えます。
当然、福島の片田舎の小さな県立病院には会社からの訪問者や広報誌の送付は全くありませんでした。当初、接触のあったのは卸問屋を含めごく少数でした。

考えてみて下さい。
組織は所詮、個の集合体です。集合体である理由は、何らかの目的を果たす為には機能集団が必要だからです。只、組織が個人で構成されている以上、他人と相対する時は1人の人間として誠実に向き合うのが第一歩ではないでしょうか。

私が整形外科を廃業したら、広報誌が届かなくなるのは理解出来ます。しかし、私は今でも尚、整形外科医です。送り手である会社の担当者は、恐らく漫然と、地域・組織・肩書き別に分類されている名簿に従って送っているのでしょう。少しは自分の仕事がプロの仕事であることを自覚しているなら、異動や地位の変更に応じて送付名簿を更新していくのが最低限の仕事です。
ひどい会社では、いつまでも元の肩書きで送り続けて、こちらから連絡してやっと変更する場合もあります。そして、大部分の会社では、以後送られてきません。

私は、広報誌が読みたくてこれに記しているのではありません。
せめて、プロとプロとの付き合いなら、先ず、交流は個対個として捉えて、個人に送るという事を認識して情報を整理しておくことが最低限のマナーではないかと考えるからです。
組織の名刺で仕事をしている以上、その時はその個人は組織を代表しているのです。
組織への印象は、個人への感情から組織へのそれへと醸成されていくのですから。

今回のような事を経験できたのは、所謂(いわゆる)大学人事でなく、個人として動いてきた人間だから、得られた経験かも知れません。
私には、組織、個人をどう捉えるかという点では、今でも原点となっている教訓の一つです。
「人間(ヒト)を地位や肩書きで判断するな」、「地位や肩書きで判断される人間の哀しみに思い至れ」と。

 

 

(2013.11.25)

 

 

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