菊地臣一 コラム「学長からの手紙 〜医師としてのマナー〜」
218. 細やかな誠意を
東日本大震災に伴う原発事故の対応で、私の仕事は様変わりしてしまいました。発生直後から、若い時に叩き込まれた行動様式で対応してきました。
一つは、「やらないで後悔するよりは、やって後悔せよ」です。
そして「患者の痛みを診るのではなく、痛みを持った患者を視よ」の思想、実践です。
そして最後に「与えられた条件で、走りながら考えて行動する」です。
これらの身に染みついた教えのお蔭で、誰も経験したことのない事態に、心騒ぐことなく、淡々と(心の中は波立っていましたが)目の前の懸案に対応できました。
緊急対応が一段落して、再生・復興事業と平時の業務が同時に行われるようになって、大学という組織でもその行動様式は医療機関と同じでなければならない、あるいは同じ考え方でやって良いということを実感したエピソードがあったのでここに記します。
一つは、解剖慰霊祭の御案内の件です(行政では「通知」とやりがちです)。
医療従事者にとって、解剖慰霊祭は最も大切な行事の一つです。通勤でのタクシーの中で(私は車を持っていません)、運転手さんから「慰霊祭出席をとの手紙をもらったが、どんな服装で行けば良いのか」と聞かれました。毎年出席している私達にとっては当たり前すぎて、式典のドレスコードについては気にしていませんでした。
この一言で考えさせられました。献体や病理解剖された方が身内に居て、この式典に参列する人々にとって、殆ど(ほとんど)の人は初めての参加であることを。
このことは、我々医療従事者に大切なことを教えてくれています。
一般の人々にとって医療機関を受診、あるいは見舞いに訪れること、そしてこのような式に参列することは、非日常です。一方、医療従事者にとっては医療に伴う業務は日々の仕事の一部です。ここで、患者さんにとっての医療従事者はone and only、医療従事者にとっての患者さんはone of them(28、38、216)という捉え方の違いが露呈しています。
私は、担当者に、服装のことを一言加筆して手紙を再度出すように指示しました。その運転手さんが式当日に出席して下さったのをみて、大学の至らなさを正そうとする我々の誠意が少しは通じたのかなと感じました。
次は、大震災に寄せられた義援金への対応での出来事です。
お会いしたことはないのですが、定期的にお手紙を戴いている、さる医療機関のトップの方から私に電話がきました。「先日、少しですが先生に少しでも役立てばと義援金を送りました。届きましたか。連絡がないので心配で電話をしました」とのことでした。
私は全く知らなかったので、取り敢えずお詫びをして、担当部署へ問い合わせをしました。答えは「義援金の受け取りの礼状は、まとめて出している」でした。正直、がっかりしました。定型的なお知らせにも返事を出しなさいと弟子を教育して、自らも実践していただけに、自分の哲学の不徹底さを思い知らされました。
大学のスタッフは、誰もが未曾有の有事への対応で時間がいくらあっても足りず、忙しいのは分かります。それでも、善意の義援金を受け取ったら感情の込もった礼状とトップへの報告は常識でしょう。直ぐ(すぐ)に先方にお詫びの手紙を出しました。
もし、この方が私と手紙での交流のなかった人であれば、この問題は解決されないまま時が経過して、相手は応えてもらえないと感じ、ついには本学ないし私への不信感にまで至ったのではと思います。
私がどんな手紙にも返事を出すようになったのは、逆境の中にあった時、高名な先生からの一枚の激励の葉書が切っ掛けでした。このお手紙にどんなに勇気付けられたことか…。
組織をバックに生きてこなかった(これなかった)人間にとって、一人一人繋がってくれる為の愚直な努力によって培われた人のネットワークは、組織と同じ位頼りになるものです。何故なら、組織は、所詮、人と人との繋がりの集合体だからです。
一人の善意の方からの連絡のお蔭で、受け取った時の対応(入金確認後のトップへの報告、その時の現状報告を入れ込んだ礼状の作成、そして数か月後における復興状況の報告)を決定することができました。
最後は、大学院の入学式や学位授与式のエピソードです。
本学は、大学院の入学式や学位授与式が年に2度あります。大学院生を増やそうというのは本学教員の総意です。にもかかわらず、入学式や学位授与式に出席する教職員が少ないのが現状です。
私は、大学紛争の余燼(よじん)くすぶる中での、周囲の学位ボイコット運動に抗して学位申請をしました。学位記を受け取る為に東京から本学に出向きました。その時、事務室の窓口で、文字通り“事務的”に学位記の受け取り書に押印を求められ、ポイッと目の前に書類を突き出されました。覚悟を持って臨んだ学位の申請に対する大学の対応、深い哀しみと怒りを感じました。
このような体験をしていたが故に、私は教授就任以来、学位授与式では、教室の方が撮ってくれるようになるまで、自分の講座の人間の学位授与の瞬間を私が写真に収め、本人に渡しました。他の教授からは「何をしているのか」と訝(いぶか)られました。しかし、これは私にはどうしても譲れない拘り(こだわり)でした。本人達はどんな思いで写真を受け取ったか聞いていませんが、それは私の原体験から得た、師としての責務だと思っていたからです。
特に、秋に行う学位授与式には研究指導者の出席が少ないので、「大学院生を増やしたいなら先(ま)ず、指導者は出席すべきです」と学務の責任者に促しました。大学の意志を明確にする為に、入学式と学位授与式も従来とは順序を逆にして、学部入学生より院生の入学式を先にしました。
これらのエピソードを巡る話は、一つ一つは些細なことです。
しかし、このような些細なことを一つ一つ愚直に直していかないと、個人としても組織としても成長しないと確信しています。
(2011.11.04)