菊地臣一 コラム「学長からの手紙 〜医師としてのマナー〜」
140.他人への感謝の気持ちなくして自分への感謝の気持ちを求ること勿れ
昨日、非常に嫌な気分を味わい、今までの自分の努力が全く水泡に帰しているのを知りました。自分自身の教授としての5年間の歩みを振り返る時に、今まで良かれと思って懸命に努力してきたものが何であったかという虚しさが込み上げてきて、自分の心の記録として残しておきたいと思い、筆を取りました。これは医局員への手紙では残念ながらありません。自分自身の心を納得させるため、しかも自分が忘れない為の記録です。「この道を泣きつつ我の行きしこと 我忘れなば誰か知るらむ」田中克己の歌が今更ながら自分の脳裏に蘇ってきます。
教授就任5周年が経ち、いささか医局の体制にだらけた気分と安逸さが出てきたのを憂い、そのことについては何度かスタッフには話しました。しかし、昨日のことはあまりにも私にはショックでした。それは抄読会のことです。抄読会の変遷については記録としてここに残しておく必要があると思います。私が研修医時代、ここに在席していたときの抄読会は、輪読会と抄読会に別れ、抄読会は1度に2人づつ自分の好きなものを読んでおりました。この方法には一長一短があり、1つの論文をじっくり読んでそれに対する質疑応答という形がその狙いですが、読む人が、余程しっかりと読んで他の文献も調べてやらないと、単なるセレモニーに終わってしまいます。もう1つの欠点は、自分の興味のあるところしか読まないので自分の専門的なものに偏りがちです。結果的にはその人自身の知識の幅広い習得にはつながらないという問題があります。私が大学に復帰してもその状態は続いておりました。
私が教授就任以来、この抄読会形式を止めました。他大学やカナダでの経験から、ジャーナルクラブというものを作りました。その背景は、以下のとおりです。1つは、、昔と違って数多くのインターナショナル クオリティ ジャーナルが出ている現在、それをじっくりと読んでいるという時間的余裕がほとんど無くなってきています。雑誌の数のあまりの多さに、我々がそれについていくことが段々困難になってきているのが現状です。もう1つは、最新のトピックを拾い、今、各分野で何がトピックかということを知っておくには、数多くの論文に目を通さなければならないということです。更に、教育という目的を兼ねると、かなり普通に行われている技術やよく知られている知識に対する啓蒙的な論文も読まなければなりません。そういう現状を充分にカバーする為には、数多くの論文を短時間で読んで、興味のある論文については自分で更に詳しく読む、というスタイルをとることが最良と考え、そのようにしました。
このような狙いで始まった抄読会ですが、昨日は特にその内容は惨々たるものでした。読む人が、読めばいいだろうという態度がありありで、「まとめ」しか読んできておりません。当然、それに対する方法論や考察などは読んでいないので、質疑応答になりません。このような状態では、当初の狙いである多くの知識、技術、方法論を素早く医局員に還元するという目的は果たせません。研修医はこの抄読会から結果を覚えなくてはならないでしょう。またスタッフは、各論文から方法論で自分の研究に、或いは自分の技術に役立てるものは無いか、というものを知りたがるでしょう。その目的のどちらもこのような抄読会では成り立ちません。
抄読会は何故やるのでしょう。抄読会は自分の為に、しかも、より効率的に、少ない労力で、多くの情報を短時間で仕入れる為にやるのではないでしょうか。それがないなら、自分で読んだ方がいいし、わずか100語ぐらいの英語は自分でも2、3分で読めるわけですから、そのような抄読会では意味がないわけです。何故抄読会をやるのかを考える時、このような抄読会では本来の目的が失われていると言わざるを得ません。
私は常に、「自分の座標軸を知れ」、「自分の医局の座標軸を知れ」ということを言ってきました。その方法として私の持てるあらゆるものを駆使して、医局員を海外、国内留学に出しています。それは、表に出て初めて知ることが出来ることがあるからです。表に出ないと分からないことがあるからです。表へ出ることによって自分の医局の素晴らしさ、自分の医局の足りなさ、自分自身の持っている素質、或いは至らない点が白日のもとに晒されるからです。自分を、或いは自分の所属する組織を客観視出来るいいチャンスだから他人の飯を食わせているのです。このような大学は全国どこにあるでしょうか。医局員のほとんどが学外留学をするという医局がはたしてあるでしょうか。
これは医局にとっても危険な賭けです。辣韮の皮剥きと同じで、自分自身、或いはその医局自身の特質を持っていなければ、我々の医局を支える核心的なものが何もなければ、単なる専門店の集合体にしかならなくなってしまうのです。そのような危険を敢えて冒してまで、医局員や医局自身のレベルアップの為に努力を払っているのです。その努力は勿論私だけではありません。1人の人間が出ればその後のパート先、或いは学内、学外の診療を残っている人がカバーしているわけです。その代わり、表に出ている人が戻ってきたら次の世代の人間が心置きなく表で勉強してこれるように、今度は代わりに医局やその人間の後を穴埋めして支えてあげるのです。これが輪廻です。こうして皆、自他共栄していくのが我々の目指す医局ではなかったのでしょうか。
しかるに、表に行って他人の飯を食い、自分の医局を客観視出来る環境にあった人間が、その得たものを自分に生かすなら未だしも、自分自身をおとしめるような行動をして、恬として恥じないその姿勢に、私は怒りよりも悲しみを感じます。感謝の気持ちがなくなった人間は、何時か他人からの感謝の気持ちを受けたいときに受けられなくなります。功利性は、その功利性ゆえにいつかは破滅します。学外留学した者が表から少しずつ持ってきた、自分の医局や自分にないものを積み重ねることによって、医局が変わっていくのです。そして自分も変わっていくのです。その積み重ねがなかったのが以前の医局だったのではないでしょうか。以前の医局も何人かは学外研修へ行きました。でもその財産は医局に残っているでしょうか。結果的にはその人間だけのものになってしまい、ついにはその人間の手元にすら残っていないのが現実だったのではないでしょうか。それは発展途上国の留学生が、帰国してもその技術、知識を自分のものの為にしか生かさない、それと全く変わらないではありませんか。
医局という組織を踏み台にして自分が大きく伸びるのは大いに結構なことです。踏み台にした医局を更にレベルアップし、なおかつ他人も学外研修出来るように自分が力を貸し、その繰り返しで自分が得てきたものを医局や次の世代の人に継いでいくことが自他共栄でしょう。この行為が感謝の気持ちを表す最も大切な姿勢ではないでしょうか。そういうことを忘れた人間や組織に明日はありません。
最も悲しいことは、感謝の気持ちを忘れた人間や組織です。そういうことを考えれば、1つ1つの行動や1つ1つの行事にそれなりの歴史的経緯や必然性を考える時、真剣に1つ1つの行動や1つ1つのセレモニーに取り組まなければならない気持ちになるのが当然でしょう。もしその自分達が得てきたもので評価して、自分達の組織やシステムに問題があれば、影でガタガタ言わずに、良くするために積極的に医局に提言しなければなりません。それは、留学してきた人間の義務です。この医局が更に上のレベルを目指そうとする時、私が言ったようなことを克服しなければ、その上の段階にはステップアップしません。上には上があるのです。一生こういう道が。続くだけに我々は頑張っていかなければなりません。山に登ってみればその先にはもっと高い山があるのに気が付いたのが、現在の医局員の正直な気持ちではないでしょうか。そこで、この程度でいいと自己規制して自分と妥協するのか、更に上を目指すのか、ここから先はかなりレベルの高い話ですから、各個人個人の気持ちの問題だと思います。
懸命に努力して、自分の持てるあらゆるものを医局に投入してきた人間の気持ちも1度は考えてみても、時間の無駄にはならないと思います。はたしてどういう医局を作っていくのが良いのか、私自身にも今のところはよく分かりませんが、1人1人の力の輪が結果的には医局の品格につながることを思う時に、もう1度システムとか、規則とかという高邁な話をしなくても、医局員1人1人の自分の学んできたもの、得てきたもの、そしてそれに引き換えての自分の考え方、行動を考えたら自ずとその答えは出てくるものと思います。