菊地臣一 コラム「学長からの手紙 〜医師としてのマナー〜

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212. 人生の扉は他人が開く   (「クリニシアン」Vol.56 no.579より転載)

「この道を泣きつつ我の行きしこと 我がわすれなばたれか知るらむ」 (田中克己)

「あの頃は辛かったと覚えている日々は、実はもっと辛かったというのが世の常(北上次郎)」、
そして、「どんな人間もそれまでの人生によって形づくられた自分を変えることは難しい」、そんな日々の積み重ねが人間のその後の生き方を形づくっていくのだということをこの歳になり実感しています。
小さかった頃の体験、学生時代の大学紛争、そして医師になってからの大学や医局という組織に属さずに修業した日々の中で、心の支えになってくれ、誇り(自負)をなくさずに済んだのは田中克己のこの歌のお蔭です。

戦後、公職追放によりそれまでの人生を断たれた父は、先祖伝来の柔術を生かして、家族を養ってくれました。母が病弱で、私は子供時代を診療室で過ごしました。
そんな中で、接骨師(骨接ぎ)への整形外科医の傲慢な言動を見聞きしました。職業には貴賤があることを知りました。父の無念を肌で感じました。

父は、生涯、自分の人生について何も語りませんでした。
「男というものは人生が配ってくれたカードでやっていくもので、カードが悪いと愚痴をこぼしたりするものではない」ことを、父は背中で私に教えてくれていたのだと今は理解できます。
大学への進路を決める際、検察官志望の私に、父の一言は「時代に左右されない職業を選べ」でした。

学生時代に、ある教授が、骨接ぎの子がいるのを知ってか知らずか、「骨接ぎ風情が」という言葉を講義で言い放つのを聞きました。私は身の置き所のないほどの恥ずかしさ、悔しさ、そして哀しみを味わいました。

父を突然の病魔が襲う一週間ほど前、私に言った言葉が遺言になってしまいました。
「医師からメスと薬を取ったら何が残るか。残ったものが医師の力量だ」。

学生時代(1971年卒業)から研修時代にかけて、自治会が教室を運営していました。
私にとっては、将来に何の希望も持てない日々でした。父が急逝し、開業の夢も消えてしまいました。
こんな時期に目にしたのがMacnab教授の論文でした。

彼との出会いや教えは同門会誌(1993年5、P31)に書いたことがあるので省きます。
彼の下で臨床と基礎のみならず医師としての考え方や生き方の全てを学びました。彼の「患者の持つ痛みを分析するだけでなく、痛みを持つ患者自身を分析すべきである」という教えは新鮮でした。

留学中、語学を全く勉強していなかったために、周囲から随分馬鹿にもされ、仕事もうまくいかず、無能呼ばわりまでされ、悔し涙に暮れたことも何度かありました。
そんなとき、彼が「努力できることも才能である」と、励ましてくれました。

学位論文を解剖学教室(整形外科学教室からでなく)から提出し、自治会から除名されてしまいました。
「除名」という言葉が、私の心の何かに一気に火をつけました。これ以降、ある信念を持って努力しました。
県立病院の院長を経て大学に戻りました。

私のような凡人には、天才や秀才の持つ集中力の持続などできません。
しかし、十年一日(じゅうねんいちじつ)のごとく同じことを続けることはできます。
「凡庸な努力は凡庸な結果しか生まない」は、凡人には辛い格言です。努力すればそれだけで人や運と出会えるほど、世の中は単純でないことは私のような者でも分かっています。
しかし、巌に爪を立てるような努力をしていると、人に巡り会い、運も味方してくれると思いたいのです。
なぜなら、「人生の扉は他人が開く」のですから。


(2009.06.01 発行 「クリニシアン」 Vol.56 no.579 巻頭コーナー「私の座右銘」より
/ 2010.03.09 転載)

 

 

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