菊地臣一 コラム「学長からの手紙 〜医師としてのマナー〜」
192.病気のことだけでなく患者さんのことを心配せよ
教室が年月を重ねると、構成員の数の増加とともに、その構成員が有している知識や技術の量と質も格段に向上してきました。今や、患者さんに、他と比較しても遜色のない医療の提供が出来る体制になりました。自分達の足りないところは、他人の知恵や技術を借りたりすることも、自分達に力がついたからこそ、余裕を持って出来るようになりました。一方、それと共に、昔は自分達の持っている知識や技術の不充分なことを自覚していたからこそ持っていた直向きさが失ってきているように思います。それこそが自分達の医療の内容を豊かなものとし、患者さんからの信頼を繋ぎ止めていたものです。
見失っているもの、それは「患者さんに対する共感」です。最近、他院でinformed consentの不充分さや医療提供者側と患者さんとの相互不信から診療が円滑にいっていない患者さんがおり、その状態を立て直す為に、その患者さんを引き取りました。そのような患者さんに対して我々はどのようなことをするかと言えば、洋の東西を問わず、同じような治療法が採用される筈です。事実、我々もそうしました。しかし、それは患者にしてみれば、裁判所に行って判決を受けるようなものです。つまり、理論的には誰もが予想出来る医療が患者さんに提示されたというだけの話です。患者さんは、病気という存在とそれ故に自分が受けている不条理に対する怒り、将来に対する不安、周囲の無理解に対する哀しさは、例えどんなに正しい治療法が選択して行われていても、癒されるものではありません。正しい治療をしていればそれでお終い、といった空気は患者さんを苛立たせます。
そういう患者さんに一番必要なのは、医師が黙って側に座ってやることです。そして、触ってやることです。患者さんの不安や怒りを聞いてやることが治療なのです。患者の話を聞くのも医師の「技」なのです。そうして患者さんの全人格に向き合うことにより、患者さんも安心感を得ることが出来るのです。そういうことを忘れていないでしょうか。治療成績は良くても患者さんの満足は決して得られません。そして治療の後には患者さんに、大きな人間不信や医療不信だけが残ってしまいます。それは、患者さんの将来にとっても、我々にとっても不幸なことです。
我が国には、「手当て」という治療に相当する言葉があります。文字通り、手を当てることです。我々は今や充分に知識や技術を習得し、時代の水準に合致した医療を提供しています。しかし、それだけでは不充分なのです。医学的に正しい判断で正しい対応をしたからそれで良いというのでは、まだ足りないのです。目には見えない、形にはならない何かを加えることで初めて医療が成立するのです。
手当てには二つの側面があります。一つは、患者さんの側に行って黙って座って居ることです。時間があったらベッドサイドに行って、座って雑談をしてみて下さい。そのことによって、それまで知らなかった患者さんの苦悩が分かり、それに対して我々は手を打てるかも知れないのです。正しい知識で色々な医療技術を駆使するよりも先ず、ベッドの側に座って話を聞くことです。もう一つは、それとは逆に、患者さんが感情を思うままに吐露出来る為の独りになる時間を作ってやることです。“絶望”を受け入れたり、或いは克服するには患者さんの誇りを保ったまま、哀しみを哀しみとして独りで感情表現出来る場が必要なのです。
適切な治療法の実施に目を奪われる余り、それに伴って起きる患者さんの苦痛に目が向かなくては良い医療とはいえません。病気を治そうとする医師や看護婦の努力は尊いものです。それは、プロとして生き甲斐を感じ、興奮もあります。しかし、それと同時に、黙って患者さんの話を聞く技もそれと同じ位重要なのです。また、医療的な処置は、時に患者さんをベッドに拘束することがあります。その場合には出来るだけ拘束しないで済む方法を考える必要があります。
少しの手間暇が掛かっても、患者さんが自分の意志でベッドから離れる自由を奪わない工夫が必要です。それが、患者さんの気分を楽にし、尊厳を守ることにもなるのです。その為には我々は知恵を出すことです。これも思いやりの心です。このような思いやりが、患者さんと医師との間の人間関係を急速に近付けるのです。 No.182 にも述べたように、我々にとって大切なことは、患者さんに一言多く話し掛け、励まして勇気を与えてやることです。