菊地臣一 コラム「学長からの手紙 〜医師としてのマナー〜」
121.何事に就いても一点でも疑念があれば、徹底的に追及せよ
我々医学に携わる者にとっては、臨床上、研究上、疑わしい、或いは悩む事が稀でありません。本当にこの術式でいいのか、或いは診断は本当にこれでいいのか、疑いはないのかという点で、困難に直面します。若い人なら尚更だと思います。私も、診断や、研究や、治療方針決定の上で、迷う事が稀ならずあります。問題はその時に我々医学を専攻している人間にとって問われるのは、その時の対応です。一般には分からないものは、手元にある文献、或いは先輩に聞いて納得しないながらも、まあまあの線でそのままにしてしまう事が大部分です。私も例外ではありません。
しかし、それを続けていると、何時まで経っても決してある一線は越えられないような気がします。最近にも色々な例がありました。それを幾つか記してみたいと思います。
一つは当大学の教授が、両下肢麻痺で紹介されてきたケースです。この場合、最初の紹介されてきた時の診断ではないのが明らかで、MRI検査をしても、髄内腫瘍の疑いという診断しかつきませんでした。そのようなMRIの像が、我々にはあまり経験がなかった訳です。そこで私は、その道で本邦のトップであるH大学の放射線科教授に直ぐに医局員を派遣して、御教示を仰ぎました。その先生は、その写真を一目見るなり、脊髄血管奇形と診断を付けました。それで選択的脊髄動脈造影を指示されました。早速選択的脊髄動脈造影をしたところが、やはり立派な脊髄血管奇形が発見されました。それによるMRI所見だとすると、全て話があった訳です。
次にどうしたらよいかという点ですが、現在では脊髄血管奇形に対しては、選択的血管塞栓術が世界の主流です。私はそれをその先生にお願いしました。ところがこの像を良く見ると、それが技術的に困難である事、およびやっても効果がない可能性が大であるという二つの理由により、この例に関しては例外的に手術が適応であるとの返事を戴きました。このような一連の返事を見ていると、さすがその道のトップの先生の読みであり、適格な指示であると思います。我々ではここまでは幾ら文献で調べてもこうはいきません。しかも幸運にして同じ結論に達するまでは、途方もない時間が掛かります。
この過程で色々雑音が入りました。「何故学内で他の科に相談しない」という雑音です。しかし最も大事なのは、ベストと思う手段を最短の時間で結論を得ることだと思います。ですから前述した手続きを取りました。私がここで言いたいのは、一点でも疑念があれば、世俗的には色々雑音が入っても、やはりとことん突き詰めるところまで突き詰めるべきだという事です。例えそれがどんなに時間、金や気苦労といったコストが掛かろうとも、その結果得られる財産は、有形無形計り知れないものがあります。
もう一つの例を挙げましょう。これも医局員が良く知っている例です。麻酔科の医師の御子息が足の複合組織損傷を受けて、何等かの処置が必要とされました。我々は考え得る手技はこんなものだろうという点で一致しました。しかし、我々に一点の疑念でもあれば、その道の国内最高の人に意見を求めるという方針を、この例でも貫きました。医局員に早速奈良医大に行って直に、整形外科助教授に指示を仰いだところ、その意見は我々とは大幅に異なるものでした。具体的にはここには記しませんが、やはりその道の一流に達した人は、その分野での洞察力は我々の深さとは桁が違うようです。この時も、「これでいいだろう」「これ以上は誰がやっても同じだ」ということで妥協してしまえば、やはりこの患者さんにとっても不幸ですし、我々も新しい知識・技術を作るチャンスを失った筈です。徹底して最善の策を講じてやろうという善意が結果的にはいい結果を産みました。
このように我々は常に、一点の疑念でもあれば、徹頭徹尾時間と金を惜しまず、また周囲の世俗的な雑音にも耐え、追及すべきでしょう。その結果新たな高いレベルに我々は達し、結果的には自分も成長し、患者さんも救われることになるかと思います。お互いに常に妥協のない努力をしましょう。それをどれだけ継続性をもってできるかが、良い医師になるかどうかの分かれ目のような気がします。