菊地臣一 コラム「学長からの手紙  〜医師としてのマナー〜

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111.宴会の目的、謝礼の意味、医師の礼儀

このタイトルは些か判じ物のようですが、それぞれが関係あるので、まとめて述べてみます。

宴会の目的は何なのでしょうか。酒を飲むことを楽しみにしている人もいるかも知れません。しかし宴会はそれ自身が目的では無く、手段なのです。ではその宴会は何の手段なのでしょうか。それは人と人とのコミュニケーションを図る為です。「同じ釜の飯を食う」ということも同じ事です。人間は酒を酌み交わし、食事を共にすることによって、親密度を急速に増します。それは古今東西事情は同じで、それだからこそ意思の疎通を図るために宴会は必要なのです。ですから宴会を主催する側に会を楽しむ権利はありません。宴会はあくまでも、その目的は何かということを念頭に置いて主催者は行動しなければなりません。

例えば整形外科の忘年会は、整形外科のスタッフにとっては大切な仕事の場です。誰も儀礼的な宴会に出てきたい人はいません。その人達が出てくるには、何等かの理由があるのです。「整形外科と付き合っていて損は無いだろう」、「整形外科と親しくしていると何かいいことがあるかもしれない」という何等かの「利」を求めている事が少なくありません。その「利」を実現させるべく整形外科サイドが努力をするのは当然です。またそういう人達の気持ちに謝意を表して、「本当に有り難うございます。我々も懸命に努力しますので、整形外科での縁を大事にして、お互い利を図りましょう」というメッセージを整形外科サイドから送ることが必要なのです。過日の解剖学教室の忘年会でも同じ事が言えます。我々の出席する意味は「今年も色々と御高配を戴き有り難うございました。来年も宜しくお願いします」という意志の表示なのです。幸い医局員達は、充分その意を解して行動してくれており、「うちの医局員も随分大人になったなあ」と感慨を新たにしました。

次に謝礼の意味について述べてみます。以前にも書きましたが、日本ではお歳暮・お中元ということが広く行われています。これも前にも述べた事ですが、日本でのお中元・お歳暮は外国での賄賂と違って、その事自体が目的では無くて、その儀式を執り行なう事によって、特殊な関係を結ぶという意味があります。医師としての立場からこの謝礼を考えてみましょう。医師は残念ながら他人から何か貰い物をしたりすることに、慣れ過ぎているかも知れません。自分にとってあまり感動しない贈物であっても、相手は相当な感謝の意味を込め、充分色々な算段をして謝礼をしているのかも知れません。また、医師にとってその贈物の世俗的な価値は低くても、他者にとっては、大変な価値のある物かも知れません。一万円のウイスキーしか飲まない人間にとって三千円のウイスキーは価値が無いのかもしれません。しかし普段千円のウイスキーしか飲んでいない人間にとっては、三千円のウイスキーは大変価値のあるものです。

私自身の経験を話してみます。私は以前、僻地病院で病院長をしていました。患者さんの大部分は高齢者です。ある時、坐骨神経痛を訴えてきた患者さんがおりました。その患者さんに硬膜外ブロックをしたところ、劇的に痛みがとれました。患者さんにとっては、年余に渡って悩まされていた愁訴だったのです。

私としては当たり前のことを当たり前にしただけで、特にその患者さんに強い印象を持った訳ではありませんでした。一週間後に、患者さんは大きな新聞紙に包んだ物を持ってきました。開けて見ると身の丈程もあるような山芋だったのです。山芋自体は大した物ではないのかもしれません。しかし、70才を越える老婆が、朝病院に来る前に、畑に行き、山芋を掘って、私の為に持ってきたというその行為に、私は大きな感動を覚えました。この感動は残念ながら東京の大病院で働いていた時には、なかなか得られませんでした。勿論東京でも手術或いは、お蔭で助かったという患者さんから、色々な物を感謝の意を込めて贈られました。それは金銭的には山芋とは比べものにはならない程高価な物が全てでした。しかし、感動の深さは、この老婆が持ってきてくれた山芋には遠く及びませんでした。我々医師は、ともすれば自分の価値観が世間とずれていないかどうか、顧みる必要があるような気がします。

「患者さんに物を貰うのはけしからん」というのも、建て前論としては当然の筋論です。しかし、私は必ずしもそういう意見に組みしません。トラブルに遭って、地獄に仏の時には、やはり何等かの形で他人に謝意を表したいと思います。例えば車がスリップして、車輪を溝に落とした時に、見ず知らずの近所の人が助けてくれた時に、その時に感じる感謝の気持ちは誰でも一度や二度は経験しています。そういう時に何等かの形で謝意を表したいと思うのも、これも当然です。その時に謝意を表したいという気持ちに、余計な気持ちが入っている余地は無いように思います。ですから一概に贈物が悪いという意見には、私自身組みしません。しかし我々が絶対に忘れてはならない事は、贈物そのものの価値ではなく、贈りたいというその人の気持ちと、贈る為にどれだけの苦労をしているか、経済的或いは労力的にどのくらい苦労しているかという事に思い至ると、それに対する感謝の挨拶も自ずと心のこもったものになり、意思の疎通が急速に良くなる筈です。

次は医局の礼儀です。
「規則だからそれをやって下さい」という応対の仕方で職員と接していると、なかなかうまくいかないのが世の常です。仕事上当然やらなければならない義務でも、「御苦労様でした」或いは「御面倒をお掛けします」と挨拶したり、感謝の気持ちとして手許にあるビール券を持っていっただけでも、相手の心はまるっきり違うものです。ビール券一袋は、その医師にとってはあまり価値のあるものでは無いかも知れません。しかし受けとる相手は当然の事をしたまでにも拘らず、御礼を言われ、何等かの気持ちの表れを差し出されたら、決して悪い気はしません。ですから常に自分の為に何かの仕事をして貰ったら、御礼の言葉を述べ、その心をちょっとした物でいいですから、形に表すと、世の中は円滑にいきます。

医師とは一般に「プライドが高い」「傲慢」「横柄」というあまりいいイメージでは語られません。だからこそ、医師が礼儀を正しく頭を下げたり、充分な謝意を込めて行動すると、それは普通の社会人がやる以上の意味を持ってくるのです。よく言われる事ですが、社会人として当然の儀礼でも、医師がやるとそれは「あの医師は素晴らしい」と褒められます。この事自体はおかしいのですが、それが現実でもあります。ですから医師は尊敬され、或いは充分な礼を尽くされて対応することに慣れ過ぎてはいけません。そういう医師であるからこそ、自ら頭を低くして、世話になったら「有り難うございます」、お世話になるときには「お世話になります」という言葉が、例えお互い仕事の上でやらなければならない事でも、そういう礼儀をとることによって、医師としての仕事が、医療上の仕事や研究上の仕事が円滑に行くものです。

この事に関しては、私にも思い出があります。私の患者さんが「お医者さんはいいですね。社会人としては当然の事をしてるだけなのに、お医者さんがそれをやると、あの医者は素晴らしい人だと言われる」と私に言った事があります。

お互い気を付けましょう。

 

 

 

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