菊地臣一 コラム「学長からの手紙 〜医師としてのマナー〜」
86.事実の中から新しい発見を
我々臨床家は基礎の学者と違って、画期的な発見ということは出来ません。しかし、新しいConcept(概念)を作ることは出来ます。しかも、新しいConceptを作ることによって病態や治療に画期的な方法を確立することが出来るのです。
しかし、臨床の場で誰にでもみえる事実の中から新しい普遍的な事実を発見をしたり、新しいConceptを作ることは口で言う程簡単ではありません。新しいConceptを作ることの素晴らしさ、あるいはその重要性をこれから具体例を挙げて話してみたいと思います。
先日、医局で以下のような話しがありました。円板状半月の患者さんが脛骨骨切り術を受けることになりました。担当医は「円板状半月があるから脛骨骨切り術は出来ない、従って人工関節置換術を行う」という話しでした。私はそのプレゼンテーションに対して異議を申し立てました。「円板状半月があると何故脛骨骨切り術が出来ないのか」と。担当医の答えは「文献上の報告が少ない。その報告からすると余り成績が良くない、従って脛骨骨切り術の適応にならない」という意見でした。私はその答えに納得せず、「それでは論理的でない」と言いました。そこで私が信頼している幾人かの膝の専門家に問い合わせたところ、事実は逆であったのです。いずれも「円板状半月の存在は脛骨骨切り術を適応出来ない理由にはならない」という答えでした。
そこで私は当科で現在まで同様な症例があったかどうか調べることを命じました。担当医は「当科で以前に膝を専攻していた先生達に聞いた結果、そういう症例は今までない、と言っていました」という報告を私にしました。私はその話を聞いた時、彼はまだ新しい視点で物を見ることの大切さを知らないなということを感じ、彼には事実を新しい視点で見ることの重要性を説きました。その時に私が言ったことは以下の通りです。
一つは、果たして今まで当科の整形外科で脛骨骨切り術をするような対象年齢層に、全く損傷のない円板状半月を持った症例があったのかどうか、あるいはそういう可能性に思いを致して患者を診ていたかという疑問です。そうでないとしたら脛骨骨切り術という一つのキーワードと円板状半月というもう一つのキーワードを自分の頭の中で結び付けて診ていなければ決して変形性膝関節症の症例の中に円板状半月の存在を見付ける筈がないし、円板状半月を有している症例に対して脛骨骨切り術を施行する時に、これらの二つのキーワードが並列して念頭にない以上、「今までそのような症例は経験していない」という医師の言葉をそのまま信用するわけにはいかないのです。円板状半月は円板状半月、脛骨骨切り術は脛骨骨切り術、それぞれ一つのキーワードを別個に考えていて患者さんを診ている限り、このような患者さんを例え目の前にしてもその臨床的意義は絶対に分からないのです。見れども見えずなのです。
また、ある専門家は以下のようなことを指摘しました。「脛骨骨切り術の適応になるような内側型変形性膝関節症の患者さんでは、外側の半月板は非常に観察が困難である。そういう観え難い状態を克服してでもきちんと観ていたかどうかが先ず問題である」という指摘です。
このように円板状半月と脛骨骨切り術という二つのキーワードをつないで今まで考えていない限りは、すなわちそういう視点で物を見ていないわけですから、円板状半月を伴っている脛骨骨切り術をどうするかという問いに対しての、「今までそういう症例はなかった」という答えをそのまま信用するわけにいかないのです。
果たせるかを私が予想した通り、当科での脛骨骨切り術の症例の中に円板状半月を伴っていた症例はあったのです。少なくとも今まで当整形外科に在局していた膝の専門家と称される人達はそれを見逃していたのです。見逃していたという言い方は正しくありません。円板状半月があったということは知っていたのかも知れません。なぜなら、ビデオに映っているのですから。しかし、円板状半月と脛骨骨切り術というこの二つのキーワードを結び付けて考えることはしていなかった。その結果、若い医師の「円板状半月を伴う脛骨骨切り術は今まであったか」という問いに対しては“NO”という答えしかでてこないのです。
以上のような事実は何を物語っているのでしょうか。それは、「経験は臨床家にとって極めて重要であるが、諸刃の刃でもある」ということです。経験は自分の経験を踏まえて自分なりに各症例を解釈する場合に非常に有効です。しかし、自分の経験だけでは分からないこと、まだ未経験のこと、更には自分には分らないことが一杯あるという認識を持っていないと、目の前の事実に対して論理的に整合性を持たせようとします。それは、東洋医学が持っている最大の欠点と同じことなのです。分からないことがある、経験しない事がある、それらを認識して自分の経験を活かさない限り、経験は却って自分の思考や新しい試みを奪ってしまうことになり兼ねません。
同じようなことは、医学に限りません。最近読んだ佐佐木幸綱の論文に同様な事例が載ってます。それは、俳人芭蕉に関する論文です。「芭蕉の歌の重要な視点は、音である」と。音声の奥にある静寂さを指摘したものです。芭蕉の「古池や蛙飛びこむ水の音」、あるいは「閑さや岩にしみ入る蝉の声」、これらの歌は誰でもが知っている歌です。しかしそこに、音声の奥にある静寂さの重要性を指摘した人は今まで少なかったように思えます。ましてや、西行の歌との類似性に言及した論文はないと思います。
西行の「古畑のそばの立つ木にいる鳩の友よぶ声のすごき夕ぐれ」、この歌にある静寂の中の音声、音声が消えた後のさらなる静寂、そして作品の背後にいる作者の耳のすませ方、このような歌から西行と芭蕉との類似性を指摘した人は、佐佐木氏を除いていないように思えます。考えてもみて下さい。芭蕉の有名な句、あるいは西行の有名な句、これは一つ一つは誰でも知っている歌です。しかし、その共通性を指摘した人間,しかもその共通性の中に音声の奥にある静寂さを指摘した人は今までいたでしょうか。いないのです。コロンブスの卵です。これは事実の中から新しい事実を発見をすることの重要性、あるいはそういう概念でとらえることによって初めて、新たなる視点が獲得出来ることの重要性を示唆しています。
勿論医学にも似たような事例はあります。Dr.MacNabの業績の中にもそれは言えます。すなわち「Traction Spur」、あるいは「Blood supply of the lumbar spine」といった論文では、誰でも見ているレントゲン写真、誰でも行っている手術、しかしその中からあの論文に書いてあるような事実は見付けたのは彼一人です。また、肩の棘上筋腱がなぜ断裂し易いのかについて、彼はその腱には血管が少ないからだ、だからそこは Critical zoneであるという概念を提唱しました。これも棘上筋腱が断裂し易いということは誰でも知っていました。しかし、そこは血管が少ないから修復機転が働きにくいのだ、ということを言ったのは彼が最初です。このように誰でもが知っている事実、その事実から新しい概念や新しい発見を出来るのは限られた人だけなのです。
以上述べたように、誰でもが目の前にしている事実の中から新しいことを発見することは素晴らしい事なのですが、決して容易ではありません。ですから本を読んで全て納得するのではなくて、疑問は疑問として自分の心の中に留めておいて、絶えず何故だろう、何故だろうと考えなければ新しい概念は生まれないのです。New commerこそ新たなる視点で事実を見ることを許されているのです。そのメリットを活かして、大いに新しい事実を確立して下さい。