「学長からの手紙」番外編 〜 新聞・雑誌への寄稿文から 〜
2010年 8月 8日付 福島民報 「日曜論壇」( 3 )
「福島民報」は、県内最大の発行部数をほこる地方紙の日刊新聞です。「日曜論壇」は県内各界の第一線で活躍する著名人によるコラム欄で、半期ごとに執筆陣を更新しながら毎週日曜日の本紙2面(社会欄)に掲載されています。
菊地臣一本学理事長兼学長は、今年度上半期の執筆陣9名の1人として選ばれ、4月〜9月まで3回の執筆を行いました。
● 福島民報社
http://www.minpo.jp
(日曜論壇掲載ページ「論説・あぶくま抄」 )
http://www.minpo.jp/column.html
● 「仕事」 への覚悟
プロフェッショナリズム(職人気質(かたぎ))とは、まず、目的に対する単純、強固な意志、
第二に、単に努力することによって、より高度なものに到達し得る時、低い水準における満足感の拒否、
第三に、栄光の陰の骨身を削る努力、
最後に、自らの努力なくして人生の果実を期待してはならない(ディック・フランシス) と定義される。
淡々とした、しかも円滑な社会の活動は、矛盾や不条理の渦巻く中、それぞれの分野で職人気質を持った人たちが昼夜の別なく、自らに求められている役割を果たしていることで成立している。
世の人々がそういう認識を持っていれば、「世間」に対して感謝の念を持つようになる。
そういった認識を持たない人は、ベストを尽くして仕事をしている自分以外の他人のしくじりや失敗をみると、往々にして完璧さを求めて叩く。
何か問題があると、すべての責任を当事者だけの問題にするという“世間”の過剰なまでの潔癖性、「正義は常に我にあり」という感覚は、以前のわが国にはなかったように思う。
「しょせん、人間は曖昧(あいまい)な偽善の上に立って生きている」のではないのか。
プロの職人気質を持った人々が、子供や世間から尊敬の目で仰ぎ見られる雰囲気が、私が子供の時代には確かにあった。今はそれが希薄であることを危惧(きぐ)する。
ただ、プロフェッショナリズムそれ自体も怪しくなってきている。
例えば、“土地の料理には土地の酒”は古今東西、普遍的な事実である。和食には日本酒、洋食にはその国や地方のワインが第一選択であろう。しかし、プロの職人がそれを平然と無視する。
もちろん、正統を踏まえての破道なら納得はできる。
道傍(みちばた)の木陰で、会社の名前が入った乗用車が群れて止まっていた。
社員たちのありさまは寝ている者、たばこを吸っている者、清涼飲料水を飲んでいる者と、さまざまだった。
プロの人には、固有の制服がある。制服を着ることは、それなりの「覚悟」を求められるということである。
若いころ、制服や看板を背負っている時は、他人の目を意識して行動することの大切さを教えられた。
私の場合であれば、白衣を着た時は、矛盾や不条理に耐えることを心に刻んで職場に足を踏み入れる。
前述した人たちは、自分の都合を優先して、自分の職業、そして店や会社のブランドイメージ失墜の危機に思いが至らないのか、あるいは組織自体が教育をしていないのだろう。
こんなところにも“プロとしての仕事”に対する覚悟の変質をみてとれる。
「時代とともに変わることは多いが、変わらないことはもっと多い」は、今という時代でも真実である。
プロフェッショナリズムの発揮には、時代を超えて「誇り」と「愚直なる継続」が要求される。
(福島医大学長)
( ※ Webページ向けに改行位置を改変し、転載しております)