菊地臣一 コラム「学長からの手紙 〜医師としてのマナー〜

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195.自分に関係のないことでも、「打てば響く」ような対応を!

大学内外の雑用への対応の為、医局員への手紙が随分と書かなかったように思います。書かなかったことが、自分の理想とする講座の姿に近づいてきていて、教室員一人一人が私の考えている医師像を具現化してくれている結果なら良いのですが、今朝、やはり「日暮れて道遠し」、「学習効果は遺伝しない」、ということを改めて思い知らされました。以前にも書いたように( No.160 )、ナースコールは看護師だけのものではなく、医療チームに対する患者からの呼び掛けですから、医師がその場にいれば医師が取って、看護師に連絡するなり自分で対応するといった、患者を中心として医療チームが一丸となった対応をすることがチーム医療の要諦です。

今朝、私がミーティングが始まる前にカンファランスルームに座っていたら、救急患者の付き添いの方が思い詰めた表情で、「患者が検査をするという言葉に興奮しているのですが、どんな検査でしょうか」とナースセンターのところに来て訴えていました。少しの間見ていると、たまたまそこにいた医師は、暫くの間(1分以内だと思うが、私には長く感じられました)無言の時間があった後、その方の質問という形をとった救いの叫びに充分に応えていない対応をしていました。そうこうしているうちに、たまたま担当医が戻って来て、再度話を聞いて担当医が患者のところに向かいました。この対応も問題です。何故なら、我々医師は先ず行動することが大切だからです。相手にもう一度話させて、時間を取らせ、それから行動するという手順は、相手を二重に苛立たせます。

このやり取りのなかに、深刻な問題が提起されているように私は思います。一つは、医療トラブルや医療訴訟というのは、日常の業務の中の、一見、何ということのない些細なことからスタートするということを忘れてはいけないことです。患者の付き添いの方にしてみれば、その検査がどれ程患者にとって必要であるかは問題ではなく、「何故、こんな時に患者を興奮させるような検査をするのか」、という思いでいる筈です。結果的にその後、患者の生命や機能の予後が悪く、患者本人や患者の家族が悲嘆に暮れた時に、「あれがなければこんな事にならなかったのではないか」などと、持って行き場のない怒りをどこか思いつくところにぶつけるのが普通です。

そして、あの時あの事がなければと後から思い出して、それを攻撃の対象にすることは珍しくありません。その時、検査が真に必要か、真に必要な検査はどんな検査か、或いはその検査の必要性をどう説明したのかなどについての妥当性はともかく、少なくとも付き添いの方は、患者が自分で起こした事故は別に置いて、今、患者が興奮してどうにも制御出来ず困り果てているのは、「検査をすると言ったからだ」という事実認識になってしまうのです。このような患者や家族の心の動きを、我々医療従事者は常に心して対応する必要があります。

このような場合、我々は、例え担当の者でなくても、その患者の付き添いの願いに応えて、直ぐにベッドサイドに行くか、或いは「直ぐに担当の医師を向かわせますから少しお待ち下さい」という言葉を言って、直ぐに対応の為の行動をするか、どちらかの行動を取るべきだったのです。その間に何も反応しない時間的ロスがあってはいけないのです。医療訴訟や医療トラブルは、後からみたその事実関係の確認と各言動の妥当性の検証になります。医療訴訟というのは、その日に同時進行している50人以上の患者に対する何百という医療行為の中のたった一つの行動を問題にして争われます。

しかも、このような議論の進め方は、いわゆる、retrospective study(後ろ向き研究)で、科学の視点からみれば質の悪い検討方法です。何故かと言えば、後から振り返ってみれば、我々の仕事や日常生活などは、完全無欠の言動で動いてはいないからです。何かトラブルが起きるという前提で仕事や日常生活を送っていません。トラブルを起きるという前提で行動しているのは、航空機業界ぐらいなものでしょう。しかし、今や医療も、そのようなレベルを求められているということを忘れてはなりません。

「完璧な医療を求めるなら、それに見合うヒトやモノを用意せよ」というのは医療職全員の心からの悲鳴でしょう。私もその通りだと思います。そして、医療を受ける側もそれに伴う責任や義務を負う必要があるという思いも同じです。しかし、だからといって、そのような医療環境の変化に対応しなくてもいいということにならないところに、医療の難しさがあります。

その患者さんは、飲酒運転で同乗者を亡くしたようです。同乗者が死亡したということは当面は本人に伝えないことになっていたのですが、申し送りの不備かどうか今の時点では分かりませんが、患者に誰かがそのことを伝えてしまったようです。それが切っ掛けでこのような不穏状態が起こったと考えることは、あながち的外れではないように思います。となると、ここにもリスクマネージメント上、考えておかなければならない問題があります。「患者自身が酒を飲んで運転したのだからおまえが悪い、自業自得だ」と言うのは簡単ですが、自分が運転していた車の同乗者を亡くしたということを、どの時期に知れば患者さんの動揺が一番少ないかは、やはり医療人として考えておいてしかるべきでしょう。

今朝のエピソードは、我々にもう一度、「打てば響くような対応」、「患者や家族の不安を先ず和らげる」ということの大切さと共に、患者さんや関係者への説明の仕方の大切さを教えてくれています。「何を説明したかではなく、説明して貰ったという事実が大切である( No.6 )」、そういったことをもう一度、確認すべきだと思います。

 

 

 

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