菊地臣一 コラム「学長からの手紙 〜医師としてのマナー〜」
189. 自分の主張は必ずしも直ぐに認められるわけではない。だからこそ、将来の為にも記録に残しておけ。
最近になっても尚、自分の研究を論文というかたちにして提示しない人間が目に付きます。 No.174 と No.177 にも書いたように、研究は一人では出来ません。研究は、多大なる金銭的・時間的負担、多くの周囲の人間の協力、そして上司や同僚の時に応じてのアイディアやアドバイスがあって初めて完成します。それだけに、研究を論文という形にして残すのは、研究者の誠意でもあり義務でもあります。
しかし、そのような次元の低い話しではなく、もっと別に論文にすることの大切さを示す理由があります。それは、自分の提示した主張が必ずしも同時代の人々に受け入れられるとは限らないことです。その時点で大多数の見解と違った結論がでると、その結論を独りで高々と提示するのには勇気が要ります。例え、後日、その結論が正しいことが分かるような主張だとしても、その時点では殆ど無視されるのが普通です。しかも、そのような反対意見はその時代においては、その時代の思考過程や常識から考えて妥当だと響くから不思議なものです。
しかし、臨床的な事実は変えられませんので、自分に自信があれば必ずそれを後世に残し、時の評価に委ねるべきです。そのような事例は臨床では少なくなく、例えば、未熟児網膜症に対する光凝固療法を開発した永田誠先生の仕事はその最たるものかもしれません。コントロールスタディーがないということで長い間認められませんでした。臨床ではコントロールスタディーを設定することの難しさがあり、なかなか認められなかったのですが、着実な症例の集積が結果的には世界から認められることに繋がったわけです。
私自身にも似たような経験があります。神経根ブロックを最初に報告したときには、「患者さんに侵襲のある面倒臭い手技がなくても脊椎外科は出来る」と著明な脊椎外科医から指摘されました。また、この論文に絡む腰部脊柱管狭窄に伴う間欠跛行の分類も最初の論文は採用されず、直ぐには認められませんでした。しかし、自分の臨床上の観察から得られた確信は揺らぎませんでした。結果として現在では教科書にもそのまま載るようになりました。このように、自分の主張を論文にしておくことは、自分の主張の妥当性の有無を後世に検証して貰う為にも大切なことです。